私は あなたがたと共にいる

聖堂天井のステンドグラス

聖堂の外観はガリラヤの湖に帆を張ってすすむ船の姿を思わせる。中に入るとまず大理石の大きな祭壇が目に付く。 主の食卓である。祭壇後方に2枚、南側の壁に7枚のステンドグラスが飾られている。そしてせり上がっていく天井の 東側の面に復活された主イエスの姿が描かれている。その下にラテン語で「わたしだ。恐れることはない。あなたがた に平和があるように。わたしはあなたがたと共にいる」と書かれている。この言葉は今治教会の家訓ともいうべき教え である。すべての人、そしてわたしたち一人ひとりの為に命をかけられた神の御子の慈しみの眼差しのもとに涼やかに 生きる、これが福音−喜ばしい知らせ−を信じて生きるキリスト者の生活である。





復活され天に昇るイエス

「わたしだ...」という言葉の上に復活するイエスの姿が描かれている。もとより復活するイエ スを目撃した者はいない。復活は人間の経験をはるかに超える出来事だからである。しかし復活 はキリスト教信仰の根本である。キリスト教は出来事の宗教である。教えにもとづく宗教ではない。 復活という出来事にもとづく宗教である。これが他の宗教とキリスト教 の根本的な違いである。イエの教えは素晴しい。けれどもイエスが復活しなかったなら、その教 えは空しい。
 わたしたち人間には根本的な疑問を持っている。「自分は何処から来て、何処へ行くのか。 私の存在に究極的に意味を与えてくれるものは何か」という問いである。イエスの復活は、この 根本的な問いに答える。人間は死と滅びに向う存在ではない。永遠の命の喜びに生きるために創ら れたものである。キリストの復活はその保証である。キリスト者は楽観主義的姿勢で自分と世界を みるものである。どんなにこの世に悪がはびころうとも、最後に善が勝つ。イエスの復活がそれを 証ししている。





イエスと母マリア

神の愛の見えるしるし

聖堂の内陣の奥、左側に幼いイエスと母マリアが描かれている。座っているイエスを優しく見守るマリア、牛と羊の 姿も見え、上に星が輝いている。ナザレの家の母と子の生活の一場面である。ベトレヘムで生まれたイエスは、母マ リアの愛を受けて成長していく。イエスのこの私生活にも測り知れない価値がある。このこどもは、罪深い世にあっ て父なる神の最愛の子である。イエスがヨルダンの川辺に立たれたとき、「これこそわたしの愛する子、わたしの心 のよろこび」という父なる神の声が響いた。人類のすべての罪と悪を超えて、人間を受け入れてくださる神の力強い 肯定のみ声である。この絵は、最も弱い幼子の姿で、人間の世界に来られた神の愛の神秘を語っている。イエスの誕生 によって、神の愛が見えてきたのである。




被昇天のマリア

人のいのちの完成のしるし

内陣の奥の右側に、墓から天に昇っていくマリアの姿が描かれている。光りの輪が彼女の頭をつつんでいる。 下には空の石棺とおぼしき箱が見える。その墓から呼び覚まされたマリアが、青い大空に向かって上っていく。 マリアに注がれている光と純白の衣装は、一切の罪の汚れから免れたマリアの比類なき聖性を表している。 イエスの母マリアが、地上の生活を終えられた後、死の腐敗を免れて、その身体も魂も天に上げられた。これ がカトリック教会の「神の母マリアの被昇天の教え」である。4世紀のはじめ、コンスタンチン大帝のナント勅 令で、キリスト教が認められたとき、信徒たちはカタコンブの地下から出てきて、テベル川のほとりに最初の 聖堂を建てた。かれらは聖堂を被昇天の聖母にささげた。このことは「マリアの被昇天の信仰」は、使徒たちの 時代から、れんめんと受け継がれてきたものであることを示している。被昇天のマリアはわたしたちの来るべき栄 光の前表でもある。




 叡智の座マリア

この名称はマリアの呼び名の一つであるラテン語の Sedes Sapientiae の訳語である。Sedes とは 「 座 」のことで聖母マリアを意味し、Sapientiae とは 神の知恵そのものであるイエス・キリスト を意味する。そこで“Sedes Sapientiae”は叡智であるイエスを膝に抱く神の母マリアを表わす。 この絵は、パリ郊外、シャルトル大聖堂の内陣、南側廊にある栄光の聖母像で「美しき絵ガラスの 聖母」と呼ばれているステンドグラスの模写である。

山の麓の説教

「叡智の座なるマリア」の下に、山の麓で話をされているイエスと弟子たちの姿が置かれている。 マタイ福音書は、イエスは山の上で話をされたと記しているが、ルカ福音書ではイエスは山から 下りて、平らな所にお立ちになって話をされたと書いている。このパネルはイエスが緑の 野原に座って弟子たちに話をされている様子を描いているが、ルカ福音書の記述に忠実に従った表 現といえよう。




最後の晩餐

 場面はマタイ、マルコ、ルカの三福音書が伝える最後の晩餐を表す絵というよりも、今日、カトリック教会で行なわれる 感謝の祭儀(ミサ)を思わせる雰囲気である。食卓に向って立つイエスは、パンと杯を前に、右手をやや上げなが ら深い祈りに入っておられる。イエスのを囲む弟子たちも祈っている。受難の前夜の不安と恐れの表情はない。 カトリック教会に入ると正面に祭壇がある。これが主の食卓である。ここで感謝の祭儀が捧げられる。日曜日、信 徒たちはこの主の食卓で食事をするために集まってくるのである。

愛する医者ルカ

 ルカは、女性や病人、弱い者に暖かい眼差しを持っていたといわれる。伝えによると医者でもあったルカは、 イエスに倣って、町々、村々を廻り、福音を告げ、病人を癒し、死者を蘇えらせたという。その故事にちなんで 世界各国にルカの名をつけた医師や医学者の団体、病院、診療所がある。このステンドグラスは、医師木原倬郎氏の尽 力によってできたものである。病人に手をに伸べるルカの面影に、深い信仰と優しい眼差しをもって、苦しむ人々の傍 らにあり続けた先生の在りし日の姿が刻まれている。




エマオへの道
その1

自分の村に帰ろう

 聖堂の東南の壁面に6枚のステンドグラスが入っている。ヨーロッパの教会を訪れるとまず 美しいステンドグラスや宗教画が目に飛び込んでくる。しかしこれらは単なる装飾ではない。 民衆の識字率が低かった時代、ステンドグラスや絵画はキリストの教えを伝える大切な手段 であった。
 今治教会のステンドグラスも「同伴者キリスト」というメッセージを伝えている。主題は 「 二人の弟子のエマオへの旅 」である。イエスが十字架上で刑死して三日目の夕方、二 人の弟子が、イエスを見捨てた裏切りの苦い記憶を胸に、自分の村エマオへ帰っていく。 最愛の主を失ったあまりの悲しみに、天使が現われて「イエスは生きておられる」とマグ ダラのマリアに告げたという話も心に入らなかった。ステンドグラスの色彩が明るいのは 、二人がエルサレムを離れたのが日中だったことを表している。二人の背後にエルサレム の城が見えている。




エマオへの道
その2

イエスは聖書を説明された

 場面は、エマオへの道を歩む二人に、復活のイエスが現われた場面である。イエスは受難と 死を表す赤いマントを着て、頭には復活の栄光を示す光の輪が見える。十字架の死を通り抜けて、 復活の栄光に輝くキリストが、イエスの死に絶望してエルサレムから離れようとしている二人に 近づき、肩を並べてエマオへの通を歩き始める。神から離れていこうとする人間に神が近づいて来られる。 人間を探される神、キリスト教の神の姿である。わたしたちは神を探している。確かに探している。 しかしその前に神がわたしを探しに来てくださる。そして人生という旅を、わたしと共に歩んでく ださる。
イエスは近づいて「歩きながら、やりとりしているその話は何ですか」と 二人に尋ねる。「エルサレムにいながら、この数日、そこで起ったことを、あなただけご存じない のですか」と二人は見知らぬ旅人の無知に呆れて憤慨する。 そこでイエスは、ご自分について聖書全体に亘って書かれていることを説明される。そのとき 二人の心は「なぜか燃え上がってきた」と、ルカは記している。神のみ言葉の力が、二人の心 の中で働き始めたのである。




エマオへの道
その3

お泊り下さい

 一行の行く手にエマオの村が見える。ステンドグラスの淡い色彩は、日が傾き、夕暮れが迫っている 情景を写している。イエスはなおも道を進もうとするが、一人が「いっしょに泊まってください。日も もはや傾いています」と引き止めている。ルカは三人が家に入ったとだけ書いている。ある解釈による と、この家はかれらの家で二人は夫婦であった。同じ家に泊まっている男女といえば夫婦の可能性もある。 イスラエルの聖地に「エマオの教会」と呼ばれる聖堂があるが、そこの壁画は二人を男女として描いている。 今治教会の絵も、その解釈に従っているようである。  二人が、どの程度、イエスの説明を理解したか分からない。二人は、この旅人がイエスであるとこと も気付いていない。ただ不思議に心のうちで何かが燃え上がるの感じていた。優しい穏やか 火で、静かに燃えていた。それはイエスが姿を消されたあと、やっとイエスだと気づくほど穏やかな火 であった。しかしこの穏やかな火は二人の生涯に亘って燃え続けていくことになる。伝えによるとクレ オパはイエスの復活の証人として、初代教会の柱石になったという。




エマオへの道
その4

あの方は先生だった

 家に入った三人が食卓を囲んでいる。パンとぶどう酒の入った杯が置かれている。イエスは立って 左手にパンを持ち、右手で祝福している。二人は食卓の前に腰をおろして、イエスを見つめている。 ルカは「イエスはパンを取り、賛美を捧げて、手で分け、二人にお渡しになった。すると二人の目が 開けて、イエスだと気づいた」と記している。
 二人が、この方はイエスだと分かったときに、イエスは姿を消された。それはイエスはもはや地上 を歩まれたときと同じ仕方で、わたしたちと共にいるのではない、ということを示している。復活さ れたイエスは、時間を越え、空間を超えて、いつもわたしたちと共にいてくださる。そのイエスに、 わたしたちは、いま、どこで出会えるのだろうか。それは主の食卓においてである。またわたしたち の援助を必要としている人々の中に、疑いなくイエスはおられるのである。二人は、あの方は先生だ と気づいたとき、すぐさま立ち上がってエルサレムに引き返す。先生は生きておられる、といういう 知らせを弟子たちに伝えるためである。




エマオへの道
その5

先生は生きておられる

 ステンドグラスの色調が暗くなっている。ヨハネは「 弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいた 場所のどの戸にも鍵をかけていた 」と書いている。彼らはエルサレムのとある家に隠れていた。パネル の上のほうに4本の燃えるローソクが、あたかも天上から吊り下げられているように描かれている。背 景にエルサレムの城門が見える。また百合の花が描かれているが百合は復活のシンボルである。復活祭 はいつも春に祝われる。それで春に美しく咲きだす百合の花がシンボルとして選ばれたのだろう。
 クレオパとその妻が息せき切って駆け込んでくる。先生は生きておられる。三人の直弟子、ペトロ、ヤ コブ、ヨハネをクレオパとその妻が囲んでいる。クレオパは旅のマントを着たままで手には杖を持っている。 時を移さず出発して、エルサレムに引き返してきた雰囲気がよく描かれている。「わたしたちはあの方が パンを手で分けたとき、先生だと気づいた」と語るクレオパ、弟子たちがどんな反応をするかと不安げに 見守る妻、そして弟子たちの後姿に、かれらの喜びと驚きがよく描かれている。




エマオへの道
その6

これらのことの証人となりなさい

 最後のパネルは弟子たちの派遣の場面である。光輪と赤いマントまとったイエスが真ん中にたち、手を伸ばし 自分の傷跡を見せている。一人の弟子はイエスの前に立ち、あとの弟子たちは合掌して、師の言葉に耳を傾けて いる。クレオパはイエスの足元に跪き、妻はイエスの右側に寄り添っている。二人はエルサレムに戻って再会し たイエスを敬虔に迎えている。イエスは「エルサレムから始めて、あななたちはこれらのことの証人となりなさ い」と弟子たちに命令された。イエスの弟子たちに与えた最後の命令である。この言葉を受けて弟子たちは出て 行く。ガリラヤといった小さな世界で生きていた漁師たちが、イエスを知って、エルサレム、ヨルダン川のかな た。スロ・フェニキヤと、国境を越え民族を超えて全世界に出て行ったのである。弟子の一人ヤコブはスペイン まで、トマスはインドまで行った。クレオパもその妻も派遣された。
 1549年、スペインのバスクから、フランシスコ・ザビエルがイエスの復活の証人として日本まで来た。ザビエ ルによって蒔かれた福音は、厳しいキリシタン迫害を乗り越えて、いま今治の地にも咲いているのである。




エッサイの樹

小聖堂の北側壁面の
ステンドグラス

「エッサイの樹 」とはキリストの系統樹と言われるものである。現代で系統樹は、生物学上の手法で、生物 の進化やその分かれた道筋を、枝分かれした図として示すものである。エッサイの樹は、キリスト教芸術では 予言の成就としての救い主キリストを強調する画題で、大聖堂のステンドグラスなどに好んで描かれた。今治 教会のエッサイの樹は、シャルトルのブルーといわれるシャルトル大聖堂のエッサイの樹の複写である。旧約 聖書イザヤ書11章からとられたダビデの父エッサイ(一番下)から最上のキリストに至る系統樹である。エッ サイの名がつけられているが、イエスこそダビデの系統から生まれると予言された救い主であることを教える ものである。一番下で横たわっているエッサイの上に描かれている4人の王の名前ははっきりしない。キリス トの下に母マリアが描かれているが、この構図は13世紀頃からで、その時代に高まったマリアへの崇敬の高ま りを反映している。




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